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「良い香りのする音楽」良い香りはどこから来るの?

由美子 深尾


フランソワ・ルシュールによってまとめられた浩瀚な『ドビュッシー書簡集』(2005年)の中にはセヴラックについて触れられた手紙が3通あります。

そのうちの2通はドビュッシーから友人ルイ・ラロワLouis Laloy (1874-1944、音楽学者・中国研究家)に宛てた手紙。因みにドビュッシーはラロワに膨大な数の手紙を書いています。

残りの1通がセヴラック本人に宛てられたという書簡で、J.カントルーブがまとめたセヴラック伝ではじめて紹介されたものをルシュールが編纂。この手紙には日付がなく、[1912?]とだけ記され、セヴラックの付随音楽《スパルタのヘレナHélène de Sparte》を称賛する内容です。でもこれはドビュッシーらしくない文体だと信憑性が疑われています。


さて、ラロワ宛ての2通のうちの1通目は1905年5月20日付です。

その中でドビュッシーは、「…親切な手紙をくれたセヴラックにまだ返事をしていないけれど、彼に会うことがあればよろしく伝えて!」という簡単なもの。

ラロワはパリ・スコラカントルム音楽院でダンディのクラスにちょくちょく顔を出していたようなので、スコラの学生だったセヴラックに会うことも度々あったのかもしれません。


2通目がセヴラックの作品が「良い香りのする音楽」と言われる所以となった1905年8月28日付の手紙です。ドビュッシーはラロワに宛てた手紙の追伸文で、


 「デオダ・ド・セヴラックに連絡することがあれば伝えてほしい。彼が私に送ってくれたものに無関心でいられるほど私はおバカさんではないと。彼は良い香りのする音楽を作る、そして人はそこで胸いっぱいに呼吸するのだ。 あいにく彼の住所をなくしてしまった。どうやってお礼を言ったらよいのだろう...?」と書いています。


セヴラックは1903~1904年にかけて作曲した《ラングドック地方にて》の楽譜をドビュッシーに郵送しました。これは5曲からなる組曲で、セヴラックが南仏の故郷を描いた作品です。第1曲からは、南仏の大地、祭りで踊る人々・・・などが目に浮かびます。2曲目以降のタイトルには湖上にて、草原での乗馬・・・・といったものもあり、色彩豊かな田園生活が想像されます。南仏の強い夏の日差しのもとに積み上げられた乾草の香りが漂ってくるようです。こんな風に言葉をあれこれ並べなくとも、それらを丸ごと連想させる「良い香りのする音楽」というワンフレーズですべてを表現するドビュッシーの言葉使いは、さすが。そのシンプルさは彼の音楽と同じ!

だからこれ以降、セヴラックの音楽には土の薫りがするとか、大地の歌とか、鳥の声とか・・・皆のイメージが豊かに膨らんでいろいろな表現がされるようになりました。

しかし最初の文章「~無関心でいられるほど私はおバカさんではない~」はちょっと意味深ですね。「興味深いね、なるほどね!」という意味でしょうか。

皮肉屋で辛辣なドビュッシーがセヴラックをこんな風に褒めるのですから、ドビュッシーはセヴラックを相当気に入っていたと言えるのではないでしょうか。


 この頃のドビュッシーは・・・


ところでこの手紙を書いた時期のドビュッシーは、社会的に制裁を受けて辛い時期にあったようです。糟糠の妻リリーを捨て、銀行家の妻で上流階級の歌姫(アマチュアとはいえ素晴らしい声の持主)エンマ・バルダックと駆け落ち同然で避暑に訪れたイギリス海峡の避暑地イーストボーンからこの手紙は投函されました。この時エンマは二人の子ども(シュウシュウ)を身ごもっていました。手紙には「逃避」という言葉が何度も見られるところをみると、彼はパリから逃れ、愛する人とリゾート地の海岸でバッシングによる心の傷を癒していたのでしょう。

ドビュッシーは1904年の半ばにはエンマと親密な関係になり、その事実を知ったドビュッシーの妻はピストル自殺未遂を図ったことがフィガロ紙で報じられ、パリで一大スキャンダルとなりました。事件後にはドビュッシーのもとから多くの友人たちが去ってゆき、ドビュッシーは裁判で離婚が成立(1905年7月)。リリーに慰謝料を支払うことが確定し、エンマも1905年12月に前の夫との離婚が成立した。だから彼は家庭問題で落ち着かない時期にありましたが、創作面では《海》を完成させ、ピアノ曲《映像第1集》第1曲〈水の反映〉を「最近発明した和声で書き直したい!」(1905年8月18日)と出版者ジャック・デュランに決心を打ち明けています。彼は創作に新たな境地を開いた時期でもありました。ドビュッシーは、「〈水の反映〉はピアノ音楽の中でシューマンの左かショパンの右に位置するだろう」と自負を語っています。


〈水の反映〉・・・和声の発明?

 気になるのは、書き直す前の〈水の反映〉です。この曲は1901~1905年の間に作曲されました。革新的な発明に至った裏にはどんな発見があったのでしょうか???もしかしたら、セヴラックの送った《ラングドック地方にて》の和声や作曲手法、ほかの作曲家(例えばラヴェルは《鏡》(1905年)を書いている)たちの音楽から触発されるものがあったのかもしれません。ドビュッシーなら、敏感に感じ取って抜群の感性で何かを創り上げることはいともたやすいことだったのでは?私はドビュッシーの耳の良さ、美的センス、効果と無駄のなさ・・・には脱帽しています!

 ピアニストのリカルド・ビニェスは最終的に書き直す前の〈水の反映〉を知っていたそうですが・・・今では見ることが出来ないようです。ああ、その楽譜を見ることが出来たらどんなに面白いでしょう!



参考文献

Claude Debussy Correspondance (1872-1918)

 édition établie par François Lesure et Denis Herlin annotée par François Lesure, Denis Herlin et Georges Liébert, Paris: Gallimard , 2005.

松橋麻利著『ドビュッシー』音楽之友社

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